もし、S.コッポラ監督の映画「ヴァージン・スーサイズ」を観て、のめり込んだ人なら。
その原作小説の邦題を一度は目にしていると思います。
『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』。
これです。
ジェフリー・ユージェニデスによる原作のタイトルは、”The Virgin Suicides”(映画の邦題と同じ)。
この簡素なタイトルに込められた美しさ、簡潔さ、ある種の冷酷さ……作品世界に通じるテイストがまず、邦題ではほとんど台無しにされました。
しかも、「ヘビトンボ」という訳語には問題が多いのです……
翻訳版の原作、その内容は翻訳の質をふくめて非常にグレードの高いものだけに、このタイトルが残念でなりません。
タイトルを間違ったために、この名作が誤解されてきた可能性があり、また、読者が限定されてしまったり、「読まれることなく」見過ごされてきた可能性も大きい、と筆者には思えてなりません。
これは名作への冒涜に等しく、また作者に対してもあまりにも失礼なことだと思わざるを得ない。
この記事は、そんな”義憤”から書かれたものです。
*この記事は広告を掲載します。また当ブログはAmazonアソシエイトです。
謎に包まれる作家ユージェニデスの”鮮烈なデビュー作”
作者のジェフリー・ユージェニデスは1960年、アメリカ・ミシガン州デトロイト生まれ。ブラウン大学で英文学を学び、スタンフォード大学大学院で創作の修士号を取得した、とされています。
彼について公にされているプロフィールはそれくらいで、私生活をふくめ、その人生はほとんど謎に包まれたままです。
また、作家としても非常に寡作。
なにしろ、これまで発表した長編といえば、『ヴァージン・スーサイズ』『ミドルセックス』『マリッジ・プロット』の3作に過ぎません。
(2002年発表の『ミドルセックス』では、翌年のピュリッツァー賞フィクション部門を受賞しています。)
さて、『ヴァージン・スーサイズ』です。
この作品の原型は、1990年冬号の文芸誌『パリ・レビュー』に掲載されています。
これが1991年のアガ・カーン賞を受賞し、1993年に長篇小説として刊行されたという経緯を持ちます。

作品の舞台は1970年代のデトロイト郊外。
厳格な両親のもとで暮らすリズボン家の5人姉妹が、次々と、やがて全員、自ら命を絶ってしまう――この悲劇を、「事件から数十年経った今になって当時を振り返る」という形で描きます。
記憶、証言、少女たちの遺品……それらを集めて、当時を再構成するのです。
語り手は「ぼく」ではなく「ぼくら」。
かつて、美しい五人姉妹に憧憬の念を抱いてきた、近所の少年たちです。
そして、姉妹の視点から語られることはありません。
最後まで読むと、この”一人称複数の語り”という手法が、驚異的な文学的発明だということを思い知らされることでしょう。
欧米では刊行当初から高評価
この小説は、1993年に刊行されるや否や、大反響を呼びました。
映画で有名になってから発見された、というのではありません。
高い権威を持つ書評を取り上げてみます。
- ①『パブリッシャーズ・ウィークリー』は、自殺という題材の扇情性に抵抗を覚える読者がいる可能性を認めつつも、ユージェニデスの声を「新鮮で説得力がある」と評価。
- 「鋭い観察力によって、多くの読者が魅了されるだろう」と評しました。
②『カーカス・レビュー』は、処女作の時点でユージェニデスを“heavyweight”と称し、「ほとんどすべての文章に才能 の証拠がある」と、まさに絶賛しました。
③『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』は、「ありふれたものを非凡なものへ変える、物語作家としての特別な才能」を評価。
衝撃的な題材だけにとどまらず、この作品は唯一無二の魅力にあふれています。
まず、文章そのものが、郊外の日常を神話に変えてしまう魔力のようなものを持っています。
そこに残酷さブラックユーモアも同居していて、しかも読みやすい。
何よりも、「ぼくら」の語りは、五人姉妹をとらえようとあらゆる努力を傾注するものの、いくら見つめても、ついに少女たちの内面には、到達できないのです。
本作はその後34言語に翻訳され、1999年にはソフィア・コッポラによって映画化されました。
現在、英語圏では“Modern Classic”(新しい古典)として刊行されるほどのロングセラーになっています。
1994年。日本で「あの題名」で刊行された
邦訳版の刊行は早く、原著が出た翌年の1994年でした。
出版社は早川書房、邦訳者は佐々田雅子氏。
調べてみましたが、日本でどれくらい売れたのか、データが公表されていないのでよくわからない、としか言えません。
ただ、単行本が刊行されてから30年以上経過した現在、まだ販売されているエンタメ系ではない翻訳小説となると稀有なので、かなりの人気を博していると考えても良いのでしょう。
映画公開後は文庫化、現在は電子書籍でも読むことができます。
「〇〇万部突破!」というような派手な実売実績はないものの、一定の読者をつかみ続けているという、カルト的ロングセラー小説といえるでしょう。
ただ、この邦訳版の問題は、その題名なのです。
不可解な「ヘビトンボの季節」
原題のThe Virgin Suicidesをそのまま訳すなら、「処女たちの自殺」あるいは「ヴァージンたちの自殺」になります。
これではちょっと、というのなら、せめて映画版のように「ヴァージン・スーサイズ」で良かった。というのも、現代の”響き”そのものが、この作品のまとう香気につながるからです。
ところが日本語版は「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」……。
文芸的な配慮などそこにはありません。
「ヴァージン・スーサイズ」だと何だかわからない、あるいは何のジャンルの本だかわからない、それでは売れないし、売れない本には意味はない――そんな出版社サイドの声が聞こえてきそうです。
あるいは、性的、とか煽情的ととらえられたのか……。
とはいえ、作中に登場するfish fliesという虫(ヘビトンボ???)、姉妹の人数、そこに結末を組み合わせただけのタイトルは拙かった。
拙劣である理由として、まずタイトルが説明過多、それも内容を侵犯しているのです。
原題は「自殺」を明示しながら、そこで踏みとどまります。
じつに、誰が、何人、どのように死ぬか――それを語っていません。したがって、謎めいた神話的な響きを持つのです。
これを、五人の姉妹が自殺します、とタイトルで明かしてしまっては、興ざめも良いところなのでした。
ミステリ小説のタイトルに「屋敷の構造を利用して宿泊者を殺害する男は誰だ!」などと出版社が名付けたら、作者から訴訟を起こされるかもしれません……
しかも、本作の中心になっているのは、果たして五人姉妹なのか、という話にも関わります。テイストも作品とまったく違うものです。
もうひとつ、大きな問題は「ヘビトンボ」です。
本当に”ヘビトンボ”なのか??
ヘビトンボと思しき作中の存在は、fish fliesです。
これは、物語の舞台となるミシガン州周辺で、夏場に入る頃になると、湖から大量発生するカゲロウ類を地元でこう呼んでいるのです。
つまり、地元民が伝えてきた”俗称”です。
fishflyは昆虫学では、ヘビトンボに近い昆虫を指します。
つまり、地域の俗称と生物学上の名称が同じではあるけれども、全然違う虫なのはたしかです。
まぎらわしい、といえば、まぎらわしい。
……これは、”細かい話”ではありません。
作中、セシリアが fish fliesについて語るくだりがあります、
わずかな時間しか生きない、孵化して繁殖し、そしてすぐ死ぬ虫……
湖から大量に出現し、その死骸は車や道路を覆う、という描写もあります。
ヘビトンボという昆虫は、カゲロウに比して大型です(全長4cm以上)。
そして、原作が描いているのは、明らかにカゲロウの類にほかなりません。
邦訳の「ヘビトンボ」は全くの誤訳とまでは言えないものの、何かしらのミスから発生してしまったものである可能性は高いとしか思えません。
しかし、たとえば、の話。
タイトルを「カゲロウの季節に自殺した……」としていたとしたら、まだマシだったでしょう。
少なくとも、短い命、一瞬の輝き、夏、そして死屍累々という物語に通底するひとつのテーマが、象徴的にこちらに伝わったのではないでしょうか。
だとしても、原題を損ねていることに変わりはないでしょう。

じつは少女たちの物語ではない……
小説を最後まで読み込んでも、なぜ少女たちが次々に死を選んだのか、その答えは提示されません。
語り手である少年たちは姉妹を見つめ、噂を集め、日記や化粧品、レコードなどの遺品を保存します。
そして大人になってからも証言を聞き、出来事を整理し、彼女たちの死を理解しようとします。
しかし、彼らはただ”「ぼくら」に見えたリズボン姉妹”像を作り上げて行くだけなのでした。
実際の姉妹は一人ひとりが異なる人格を持っていたはずです。
ところが、少年たちは”外から見た彼女たち”に憧れ、その周囲をさまようだけ。そして、語るうちに、彼らの記憶の中で姉妹はしだいに美しく神話的な存在に昇華され、ひとつの集合体へと変化していきます。
「ぼくら」は彼女たちを愛していた――たしかに、その通りかもしれません。
しかし、誰一人として、彼女たちを理解してはいなかったのです。
……これは、ひとつの読み解きに過ぎません。
実際に近年になって欧米の書評は、より深い洞察に至っています。
傾向としては、本作を「”男性が女性を見ること”に対する批評」として読む傾向が強くなっています。
美しい外見の少女たちに憧れ、彼女たちを美しく神秘化する――そんな少年たちの姿勢というか、態度、視線こそが、彼女たちを「一人の人間として」見ることを妨害している。
――そう解釈しています。
批判的な意見としては、この小説は少女の苦痛や死を美しく描きすぎている、というものがあります。
男性視線の危うさを暴いているのか。そうではなく、その視線を詩的な文章で再生産しているのか。あるいはその両方なのか……
この問いは、いつまで続くのか、まだわかりません。

「美しいもの」に潜む猛毒
映画版『ヴァージン・スーサイズ』は、淡い光、ガーリーな衣服、花、音楽、1970年代の郊外住宅などによって、独自の美しい世界を作り上げています。
原作も美しさにあふれていますが、その美しさにだけ目が向いてしまえば、多くを見落としてしまうのです。
たとえば少女たちの置かれていた環境です。
「ぼくら」の客観的な視点から見ても、彼女たちの母親は厳格で支配力が強大だし、父親は明らかに無力です。
また宗教的な抑圧もあれば、地域社会は無関心だし、1970年代とはいえ少女たちの精神的苦痛への理解はあまりにも乏しいものでした、
少女たちは大勢の人たちに”見られている”存在であったにも関わらず、誰一人として、彼女たちを”一人の人間”としては見てくれませんでした。
物語の舞台となる街では、病んだ樹木は次々に切り倒され、湖は汚染して行きます。
町全体がゆっくりと衰退しています。
じつのところ、リズボン家の家族も地域社会も自然環境も、かなり前から病巣を抱えていて、すでに内側から崩壊している、という背景が巧みに描かれています。
つまり邦題から誤解されるような”唐突な崩壊”が起こったのではありません。彼女たちの住む世界そのものが、ゆるやかに死につつあるのです。
それなのになお、周囲の大人たちは問題や現実を直視しません。そして姉妹がすべていなくなった後は、日常に戻ろうとします。
この作品のおそろしさは、五人の少女の死ではなく、誰も身近にいた彼女たちの痛みや苦しみを理解することがない、というところにあります。
30年後、若者たちに”再発見”された理由
『ヴァージン・スーサイズ』は、刊行から30年を経た2020年代に再び大きく売れ始めました。
イギリスではBookTokをきっかけに人気が再燃。
2022年には売れたユージェニデス作品の約90%が本作でした。そして2019年と比べると、ユージェニデス作品全体の売上金額は10倍以上になりました。
映画の美しい映像やファッションだけでは、若い世代をここまでとらえることはできないでしょう。
家庭内での孤立。SNSなどで感じる「誰にも理解されない」気持ち(大勢に囲まれ、見られ、”いいね”をもらいながら)。そして、他人が作ったイメージに押し込まれて本当の自分が見えないこと。自分らしさを出せないまま、他人の押し付ける世界の中だけで生きることを強いられること……。
そんな苦しみをわかってくれる人が家族にも友人にもいない……。
1970年代の郊外を舞台にしたこの物語に描かれているのは、凄絶なまでの孤独で、しかもそれが美しいだけに、厄介なのです。でも、その孤独や苦痛は、現代の若者に切実なものとして共鳴するに至りました。
この作品は邦題や映画で間違われてしまいがちな”少女小説”ではないのです。

終わりに|酷い邦題と名作の核心
『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』。ある意味、衝撃的で忘れがたい邦題です。
あまりにも原作を離れ、誤読や誤解を招く、という点でも破壊力は強大です。
やはりまだ「ヴァージン・スーサイズ」でとどめておいたほうが良かったのではないでしょうか。
「なぜ少女たちは自殺したのか?」という方向に目が向きかねない邦題ですが、そんな話は本作では”ひとつの謎”に過ぎません。
この作品がつきつけるのは、非常に残酷な問いでしょう。
――あなたは、自分が心から愛していると思っている相手を、ほんとうに一人の人間として見ていますか?
- ――あなたがもし、苦しんでいる人を理解しようとするなら、その人の声を本当に聞いていますか?
- ひょっとしたら、”あなたにとって都合のいい話”を作り上げてはいませんか?
……そして、美しい存在だった人たちの悲劇をただ、「美しく、はかない」ものとして消費してしまい、背後にあり続けている支配や孤立・周囲の無関心を、すっかり見落としてはいませんか?
じつは、これらの問いに答えられる人はわずかなのです。
なぜなら、読者である私たちは、この作中に出て来る”周囲の人たち”と同じに過ぎなくて、「自分の身にふりかかった事」でないかぎり、結局は他人事として忘れ去るだけのものでしかないのだから。
『ヴァージン・スーサイズ』が秘める猛毒性がこのあたりにあります。
どれほど見つめても、他者を完全には理解できない、という事実。さらに、理解できない相手は美しいイメージの中に閉じ込めてしまい、スルーしてしまう……
――そんな人間が抱えている”危うさ”を描き出した作品です。
美しく、目立ち、語り継がれる存在であった少女たちは、じつは生前から誰にも見つけてもらえることがないままなのです。




