生霊、死霊、地縛霊、宇宙生命体……変わる説明、揺るがない権威
あなたはとても良くない霊に取り憑かれています。
これほどタチの悪い発言は、あまり比類がないように思えます。
相手には「見えている」としても、こちらには見えない。
第三者も確認はできません。立証などできない。
判断はただ、”見える人”にだけ任されていて、判断基準がほかにないので、信じることも疑うこともままならない。
とはいえ、不運をかこっているときや心身の調子が悪いとき、
あるいは経済的な苦境にいたり、人間関係で悩んでいたりなど、
何かしら問題を抱えているときに、霊のせいだ、と言われれば、どうしても不安になります。
たとえその場で笑い飛ばしても、心のどこかに引っ掛かるもの――まるで”呪詛”のようです。
私(筆者)は今、いわゆるスピリチュアルというジャンルには独自の関わり方を選んでいます。
自分にとっては重要なジャンルではあります。でも、
そちらの方面の住人とは関わらないように心がけています。
そんな態度を取らざるを得なくなった理由のなかに、霊能者に振り回された経験があります。
おかげさまで多少は”強く賢く”なれましたが、
彼らと付き合って失った(強奪された?)時間・労力・金銭たるや、かなりのもので、
とても公平な”取り引き”ではありませんでした。
そこそこ名の知れた霊能者ですら、それほどの”破壊力”を内在させています……。
この記事は、霊が存在するか、とか、あるいは霊能者を無暗に批判するものではありません。
霊能というものを否定するものでもありません。
俎上に上げるのは、「私には見えている」という、こちらからは確かめることのできない言葉や態度により、語る側(霊能者側)は絶対に負けることのない、しかも絶えず上位に位置してしまう関係性が形成されること、です。
絶対に対等になれない関係性を強いられてしまう。
下手すれば師弟関係のようなものすら作られてしまう。
そして、その根拠たるや、「私には見える」という言葉がもたらす不安と恐怖による支配なのです。
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反論の余地を与えない「私には見える」発言
「あなたには生霊がついていますね」と霊能者に言われるとします。
確認はできません。「何も感じられないです」と答えたら、
「本人はわからないものです」と返される。
もし、そこから「今、あなたは順風満帆に見えますが、近い将来、良くないことが起こりますよ」
と言われたとしたら……
あるいは、その生霊というのを”見る”ときに、おそろしく醜悪な何かを見るような表情を浮かべ、
急に咳き込んだりしたら……
おそらく、不安になったり怖くなる人の方が多いのではないでしょうか?

そこから霊能者が能力を行使して(除霊とか、浄霊、祈祷……)、
こちらはなんらかの改善を感じたとすれば、「効果がありましたね」で済みます。
改善しない、となると、「あなたの心にあるブロックが邪魔しています」とか、
「先祖に成仏していない人がいる」「あなたの持つ疑念が邪魔をした」
さらには「思ったよりタチの悪い霊だった」etc.etc.……
――もはや何でもあり。どのような結果が出ても、霊能者は必ず”正しい”わけです。
どのような説明をしても、それが”正しい”と主張できてしまう――
これはまさしく、誤りを示す条件がない”反証できない主張”です。
外部から確かめる方法がなく、しかも結果によって考えを修正する必要もない。
だから語る本人は無敵――関われば”言いなり”になるしかない。
生霊、死霊、宇宙生命体……原因だけが入れ替わる
たとえば、何かの原因を霊能者が語るとき、
あるときは”生霊”が登場し、またあるときは”死霊”。”地縛霊”が出て来ることもあれば”動物霊”も現れる。
ついには”宇宙生命体”とか”別次元の存在”、”地底人”……
かくまでも自由自在に原因を入れ替えられるのなら、何でも説明できてしまいます。

霊魂が不滅なら死霊って、何なんですか?

死者の霊なんだよ、きっと!

Lizo
俺だったら、スタンドとか出したいな。

上のやり取りが笑えないんだよね、霊能者の発言に限って……
ここで注目したいポイントがあります。
それは、説明する存在は次々と変わるのに、『私には真相が見えている』という本人の権威だけは変わらないことです。
あらかじめ語り手が敗北しないポジションにいる。
――これはフィクション(虚構)の構図なのです。。
つまり、本来なら事実と説明が合致しないのなら、説明のほうを見直す必要性が生まれます。
そうして現実を回していかなくてはなりません。
ところがフィクションの”閉じた世界”ならば、齟齬が生まれようが矛盾が生まれようが、それは新しい物語の材料になるだけです。

つまり、被害者には双子の兄が存在したんだよ!

……目を離していた隙にどうやら、この世界の構造が変化してしまったようね。

Sou
上の2人、もう君らには仕事は頼まん!!!
……こういった”手法”はフィクションの辻褄合わせや、ストーリーを延長するには、常套的に使われるものです。
霊能者のタチの悪いところは、現実のもっともナイーブな問題に、フィクション的手法で入り込み、
やがては相談者を完全に侵食してしまうところでしょう。

マッチポンプ構造|不安を与えた人が救済を販売する
マッチで放火した人が持参したポンプでそれを消す――これを”マッチポンプ”と呼びます。
”自作自演”であり、多くの場合、悪い意味に使われる言葉です。
霊能者が提供する構図は、これに等しいことが多いようです。
不安を与えた人物が、不安からの救済も提供する(しかも法外な価格であることが多い)。
誰しも、「このままだと危ない」とか「ご家族にも影響するかもしれない」
なとど告げられたら不安になります。
そして、このような”宣告”は大概、相談者ですら気づいていない方面――
いわば、”あさっての方向”から不意を突くように行われるので、動揺は増幅されてしまう。
……まあ、向こうは何でもありなので、如何様にでも攻め手はあります。

そこで、「これは特別なトリートメントやった方がいい」とか「取り除けないことはないけれど、特別になる」
などと有料サービスに引っ張られたら、なかなか断れないでしょう。
いつか訪れそうな危機を憂いて日常が手につかなくなるのを「杞憂」と呼んだりします。
ところがこれは笑えない話で、いつの時代でもこういう人は存在し、時には誰かに影響を及ぼす、
なんらかのツール(想像力や”語りの上手さ”ほか、特異能力も含まれます)を持っているのです。
たとえば祈祷を受けた→なんとなく安心した→不幸は起こらなかった
そんな流れがあるとします(普通、祈祷を拒絶しても何も変わりません。スピ的な世界でもよく言われるとおり、
「心配事の90%以上は起こらない」のが常ですから……)。
それで祈祷は成功、となるわけですが。
――客観的に効果を測定することは、ほぼ不可能なのです。
幅広く世間を納得させる根拠もエビデンスも、妥当な測定方法もない。
だから、発生する料金の妥当性は判断できないと言えるでしょう。
だから、もし霊能者がとても悪質で、「まだ完全に祓いきれてない」と言い出して、
次々と追加の鑑定やらお祓いやら合宿やセミナー……となると、財産が尽きるまで付き合わされるでしょう。

断ったら、どんな不幸が起こるかわからない……という不安妄想に駆られて、どこまでも搾取されるんだよな。
占いやスピリチュアルにお金を払うこと自体が、悪いわけではないのです。
それをきっかけに、気持ちや考えが整理できたり、
あるいはエンターテイメント的な楽しみ方をしたりすることができれば、
そのジャンルも活用されているといえるのではないでしょうか。
しかし、そこの住人(主に主催者)が恐怖を作り、その恐怖を解消するための支払いを繰り返し求めるのなら、
もはやそれは楽しみや助言の範囲を越えています。

なぜ冷静な人でも信じてしまうのか
自分自身を振り返ってみても、「どうしてあそこまで信じてしまったのだろう」と、
自責の念に駆られることはしばしばあります。
ただ、当時の私は強がって見せてはいても、大事だと思っていた人物に手ひどく裏切られたりして、
そうとうに参っていました。
「よく耐えたとしか言えない」と、カウンセラー(正規の資格を持った本物のカウンセラーです)が絶句していました。
おそらく、霊能者に入れあげてしまう人の多くが、同じように相当な苦痛の中にいるのだと思います。
そのように弱っているときに、確信に満ちた言葉を語る人に引き寄せられてしまうのは、
愚かさの証明とはいえないと思います。
また、悩み・苦しみといっても、一言では語れない、すぐには答えの出せないものは多々あります。
病気、人間関係、仕事、家庭……だいたい、こういう悩みの原因は複数が絡み合っていて、
その中のどれが”親玉”なのかすらわからないし、自分でも気づいていない隠れた原因が潜んでいることもあります。
その渦中にいるときは、いくら努力しても結果が出ないように感じてしまう。
そのときに「その原因はこれです」と断言する人がいると、頼もしく見えもします。
その人の説く原因が「成仏していない先祖の霊とあなたの前世でのカルマの記憶に宇宙生命体」だとしても、
とにかくそれで、手に負えないように見える複雑で面倒な現実が解決してくれるのなら――
たった一つの”物語”で、この苦痛から解放されるのなら――
そんな心理状態に、人間はすぐに陥るものと思えます。

霊能者が有名だとしても……
その霊能者が程度の差はあっても、著名であることも、”安心材料”にはなります。
たとえば本を出している、テレビ出演の経験がある、ラジオに出演している、etc.。
有名人を鑑定した経験がある、予約が取れない”売れっ子”……なぜか、このジャンルの人たちは、
芸能界の人々の”あり方”(?)に強い影響を受けるらしいです。
ほか同じくメディアによく出て来る”成功者”にも。
――このような実績があるとしても、それは知名度や発信力などの問題に過ぎません。
その人の持つ能力のレベルや、その人自身の人間性などとは、ほとんど関係していないのです。
なんとなれば、たとえ多数の支持を受けている、としても、それが個々の発言やパフォーマンスの検証に代わるものとはなり得ないからです。
”勘違いしているカリスマ”が示す7つのサイン
霊能者の真贋を判定する――これは、おすすめできかねます。
というのは、そう試みる時点ですでに「相手側の土俵に乗ってしまう」から。
わざわざそんな面倒くさい方法を選ぶより、もっと現実的な方法があります。
つまり、相手の言動を観察することです。
「それ以上の接近を避けた方がいい」というサインは次の通りです。
- 説明が外れると、別の”見えない原因”へ置き換える
- 疑問を示す人を「波動が低い」「素直ではない」と否定する(すり替え)
- 家族や友人の忠告を「邪魔する存在の影響」と決めつける
- 災いや不幸を強調し、急いで決断・契約させようとする
- 鑑定後も「まだ危険が残っている」と追加料金を求める
- 相談者が自分で決めるより、何度も自分を頼るよう促す
- メディア出演歴や有名人との関係を、能力の証明として使う
良い助言者は、最終的に相談者が自分で考え、選べる状態へ戻ることを助けるだけです。
危ういカリスマは反対に、相談者が「この人に聞かなければ何も決められない」と感じる状態を作ります。
そして多くの場合、「どこまで付き添おう」とします(その人の財産か命運が尽きるまで)。
これが大きな判断基準ともいえます。
その人と関わると自分の判断力が戻るのか・それとも失われるのか。
これは、直観的に判断した方が良いのかもしれません(考えすぎて相手が介入する余地を与えない方が良い)。

「信じる自由」と「従わせる権利」は全くの別物
目に見えないものを信じる自由は、誰にでもあります。憲法でも護られています。
お守りを持つ、神社に参拝する、占いを気分転換に使う――。
そうした行為によって心が整い、前向きになれることもあるでしょう。
けれども、見えないものを理由にして他人の人生に介入し、それを動かす権利は別物です。
「その人とは別れなさい」「仕事を辞めなさい」「家族の言うことを聞いてはいけない」。
――これらの判断は人生の未来に関わる重要かつ重大なものではありませんか?
それほどのものを、検証も説明もできない”霊的な”説明だけで決定してはいけません。
まして、”霊的ななんとか”を理由にして、高額な金銭やそれに匹敵するものの支払いや受け渡しを迫られたら、
何も即断即決する必要などないのです。
もし、そんな事態に追い込まれたら、とにかくその場を離れることです。
そして、事実関係を整理し、信頼できる第三者に相談しましょう。
霊能者にいつの間にか明け渡してしまっている原因の部分を、もっと現実的な機関に移行させて行くようにする。
健康問題、生活環境、人間関係、契約上の問題その他、それらに対応するサービスは、民間でも行政でも、
探せば大概、見つかります。
かかる料金も、霊能者のそれよりははるかに安上がりだし、そもそも霊能者は自分だけの物語の世界に
他者を引き入れようとするくらいで、あなたが抱えている問題についての専門的な知識や考察は持ち合わせていません。(責任感も抱いていません。)
閉ざされた世界から、少しずつでも、外に出るようにすることです。
すでにお金を払ってしまったら
「自分で選んだのだから仕方がない」と、諦める必要はありません。
日本の消費者契約法では、霊感などの特別な能力による知見を用いて、重大な不利益を避けるには契約が必要だと不安をあおった場合など、一定の要件のもとで契約を取り消せる可能性があります。
契約書や領収書、振込記録、メッセージ、日時と説明内容のメモを残しておくべきです。
困ったときは、消費者ホットライン「188」に相談できます(緊急なら「110」でOK)。
状況によって扱いは異なるため、一人で結論を出さないことです。
消費生活センターや法律の専門家につなぐことが大切です。

※本稿は一般的な情報であり、個別の契約についての法律相談ではありません。
自分の判断能力を”ほかの誰か”に明け渡さない
私はスピリチュアルや霊能を否定する者ではありません。
これまでの人生で何人か、そのような能力を持つ人物に遭っても来ました。
彼らの示した能力に驚きもし、見識を深めるきっかけにもなりました。
彼らの”その後”については、知らないし、知りたくもありません。
私はまた、スピリチュアルなものを信じた人を笑いたいわけではありません。
かつての自分を含め、不安や迷いの中で誰かの言葉に救いを求めた人を責めても、問題は解決しないからです。
とはいえ、やはり――
「私(たちだけ)には見える」という言葉を、万能の札にしてはいけないと思います。
これは道義の問題でもありますが、説明や実証が不可能な世界に根拠を持ち込まれては(生霊、死霊、宇宙生命体、異世界人など、感覚やイメージでしか把握できないもの)、いかに壮大なストーリーを語られたとしても、
少なくとも正統的な”この世のルール”の中では、それはある種のフィクションと見做されるのが関の山です。
確かめられない、疑問は許されない、説明も曖昧模糊としたまま。
そこに服従と金銭を求められるのなら、拒絶して構わないでしょう。いや、拒絶してしかるべきです。
その場の同調圧力が強いのなら、いったん、そこから離れるべきです。
本当に人を助ける言葉は、その人をいつまでも支配しません。
少しずつでも、自分で考え、自分で選べる場所へ返してくれるはずです。
見えないものを信じる自由はあります。しかし、見えないものを理由に、自分の人生・人間関係・金銭を動かす権利まで、誰かに渡す必要はありません。
- ※「お任せ」はやめましょう。「お任せ」を求める相手は奪うだけで責任は取りません。
- この記事の流れでの次回は”(スピリチュアル)リーディング”を取り上げる予定です。
- あなたの情報を”読める”という相手のペースに乗るのは、「覗き魔を崇拝する」ことに通じてしまいます。



